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神仏に出会う霊場巡礼

二十八宿

第九番目経塚・和泉葛城登山

 修験道を志す友人に連れられて、葛城">二十八宿第九番目の経塚である和泉葛城に私が登った理由のひとつは、健康のため。

 経塚は山にあることが多いので、単純に運動になるということがありました。修験者の友人から見れば、はなはだ不純な動機かもしれませんが、健全な魂は健全な肉体に宿るという言葉もあるように、まず体から健康にしていきたいという思いがあったのです。

 和泉葛城山は、標高858m。中級者向きの山だと言われています。修験者としての訓練を積んだ友と違い、私にとっては、多少の覚悟がいる山でした。
 登山道の横には絶えることなく川が流れ、その水は、ところどころ滝となってほとばしり落ちています。行場には滝がつきもの。この山は、修業の山そのものであるのでしょう。

 「少し前までは、脱落したり、怪我をした修験者は、その場に捨てておかれたんですよ」
  
 友の言葉です。修業中に命を落としても仕方のないこと。そして、怪我をするのは、鍛え方が足りないから。修験者としては失格である……そんな考えからのことだそうです。

 しかし、現代のように、山道が整備されていたわけではないでしょうから、滑落したり、コースを外れた修験者の数は、並大抵ではなかったでしょう。

 古代において、神は山から降りてくると考えられていました。そして人は死ぬとその魂は山へ行くと。山は神の住まう場所であると同時に、もっとも死に近い場所だったのです。
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心を見つめなおす巡礼の旅

 道のところどころで、友人は法螺貝を吹き鳴らします。

 法螺貝を吹く事には、いろいろな意味が込められていると言います。「音」は、場を清浄にし、気を整えます。
 また、往古、国を巡回し、いろいろな情報を伝達したとされる修験者にとって、よく響く法螺貝の音は、遠くにいる味方に何かを知らせるために最適の道具だったようです。神秘的に思われる修験者の行には、実際的な意味も込められているのですね。

 足場の悪い山道を、足元を見つめながら登っていると、いろいろなことを考えてしまいます。さくさくと降り積もった枯葉は、何層にも積み重なっています。腐って土になったものから、去年に落ちたものまで。生きとし生けるものが、死んで腐っていく様を連想されて仕方がなくなってくるのです。

「修業ってなんなのかな?」

 何気なく聞いた私に、友人は振り返りました。

「なんなんでしょうねぇ。僕にもわかりません。でも、答えが出ないからこそ、修業ができるんじゃないでしょうか」

 そして、にっこり笑って、こう付け加えたのでした。

「また、一緒に山に登りましょう」

 頂上に着くと、経塚の前で、友人は、読経を奉納。そして、横笛を取り出して演奏しました。
 そのことになんの意味があるのか、私にも、彼にもわかりません。
 しかし、そのことによって、自分の心を見つめなおすきっかけとなる。それは決して意味のないことではないのでしょう。
 修業とは、そういうものなのかもしれないと思った山行きだったのでした。
法螺貝